みなさんこんにちは、ブリ吉です。
2月末から怒涛の如く3度(銀座、千代田区役所、英国大使館)に渡って行われた駐日英国大使館写真展。実はブリ吉が歴史考証、キャプション設定、そして鑑文(冒頭文)などを担当しました。ブリ吉の専門は、なんと!日英関係史なのですね~。
この写真展が2001年からコツコツと公文書調査をして来たブリ吉の成果と言えば、そうなのかもしれません。しかし、机の上の調査だけでなく、元外交官や現地採用の元職員さんたちと話を交わすことで判ったことや、遊びで行った旅行先などで見つけたものから、英国と世界との関係が判ることも多々あるものです。
10年以上前ですが、ニュージーランドに行った時は、港近くの旧英国領事館の中の調度品に英国らしさを感じましたし、19世紀の暮らしぶりも見えてきました。当時の外務職員の皆さん、けっこう自給自足の生活なんですね。地元での人件費が安かったから、いろんな役割や役職があったようです。お庭番は、前庭担当、後ろ庭担当、そして果樹担当や作付け担当など農作物の担当が居たようです。
外交や領事の世界でも、僅か100年前でもサブシステンス(ぎりぎりの生活)だったってことが、とても近しく、微笑ましく、且つ本来の在り方を知らされるような気持ちになるのはブリ吉だけでしょうか。
しかしながら、ニュージーランドの画像はファイリングが悪くて、見つけられませんでした。でも、割と最近行った台湾の画像で、世界に散らばる英国の足跡を辿ってみましょう。
紅毛城と言われる元英国領事館跡です。元々は17世紀にスペインが作ったものですが、その後オランダ、イギリス、日本などによって接収され、戦後はまたイギリスに戻りました。その後は、台湾とイギリスとの国交断絶によりいろいろな国の管理下に置かれた建物です。台湾に返還された後は、その歴史的意義の深さから1984年以来、一般公開されています。
で、この城の中を見て驚いたのは、イギリスがこの建物を管理していた時代、つまり、清朝統治下時代と、それに続く大日本帝国統治下時代、それぞれの時代の英国領事館として存在していた時代の足跡がそのまま現在でも残されていることです。しかも、内部のデザインや調度品の数々は、現在の横浜にある総領事館公邸跡(いぎりす館)、総領事館跡(横浜開港記念館)に残されているモノと同じ、あるいはとても英国式で、且つ似て非なるものでもあるのです。さらに、東京の英国大使館では、現在も使用されている調度品や屋内のデザインも同様なのであります。
左の画像は台湾の紅毛城のもの。そして、右は東京の英国大使館の官舎宅の机です。どちらも皮装の天盤が、両脇の引き出しから外れるタイプで、装飾も引出のシステムもほぼ同じです。
これも左が台湾の紅毛城のもの。右は東京の英国大使館のもの。左とまったく同じ形状のものが、東京の大使館にはいくつか存在します。ウィリアム・モリスの影響を受けたデザインも見受けられますので、ほぼ同時代に供給されたものであることも判ります。左はもはや展示物ですが、右はまだ現役バリバリで英国人のお尻を労わっています。
これらの調度品は明治時代から香港にあった工営部で調達したモノですが、植民地や租界地で腕の立つ職人を雇って環太平洋内の英国公館に向けて、工場制手工業で作られたものです。
左は台湾の紅毛城。右は東京の英国大使館。観音開きの窓やドアです。しかも必ず内開き。内開きは、構造的に横殴りの雨に弱いので、相当うまく作らないと窓枠の周囲から雨漏りするんです。画像には写りませんでしたが、雨染みまで一緒です。
台湾の紅毛城のすぐ近くにある波止場跡には「領事館」という名前のカフェもあります。
ブリ吉は仕事柄、どこの国に行っても英国と日本の足跡を辿っています。読者の皆様も日英の足跡など、何かしらの発見があれば、ご教示下さいませ。